「カオナシ」と「ともに眺める関係」
カオナシと千尋との関わりは、千尋がカオナシを湯屋の建物の中へ入らせたことから始まります。庭に一人で立って雨に濡れていたカオナシを見て、千尋は湯屋の客だと勘違いします。そして、「どうぞ」と言ってカオナシに建物の中へ入るように促します。
この関わりは、千尋にしてみると、仕事の役割上行ったもので、カオナシに特別に親切にするつもりだったわけではないでしょう。お客さんへの当たり前の関わりとして行ったと考えられます。つまり、これは社会的な関係として行われたものだと言えます。
しかし、カオナシは千尋の関わりを社会的な関係であるとは理解しませんでした。千尋が自分に対して特に好意があるから、自分に親切にしてくれたと感じたように想像されます。つまり、カオナシは千尋との関係を個人的な関係として受け取ったと考えられます。
全ての社会的な関係は、人と人が直接に関わり合うのではなく、何らかの媒介を通して関わり合います。例えば、仕事を通して同僚と関わり合いを持ちます。共通の活動やプロジェクトに一緒に取り組むことを通じて関わり合いを持つのです。子どもの成長・発達の過程で、この関係が最も初期に現れるのは、指さし行動です。子どもが、指さしをして、大人にものの名前を言わせたりする行動です。
指さし行動は発達心理学では joint attention(共同注視、共同注意)と呼ばれます。指している指そのものではなく、その指が指している何かに注意を向けるられるということは、実はすごいことです。指を指している人間も自分と同じように心を持っているという認識が必要なのです。だから、犬や猫には非常に難しいのです。指さしは他者の心に共感する関係の第一歩となるのです。この関係は、一緒に何かを眺め、一緒に何かに関わったり、一緒に取り組んだり、一緒に話し合ったりしていく関係です。こういった関係は「共に眺める関係」と表現できます。
一方、媒介を必要とせず関わり合うのは、通常は家族や恋人同士に限られます。例えば、乳幼児と母親は、媒介となるものを全く持たないで関わりあいを持ちます。乳児と母親がお互いに見つめ合いながら、母親が「あー」「うん、うん」などと語りかけたり、乳児にも言葉の意味が分かっているかのように語りかけます。この関係は、乳児と母親の2人以外の何者もそこには存在しないという関係です。それは、「見つめ合う関係」とも表現できるものです。
子どもの発達は、「見つめ合う関係」が基本となり、大人との関わりの中で「共に眺める関係」が持てるように育っていきます。大人の関わりが非常に重要なのです。例えば、絵本の読み聞かせは、指さしよりも発達した「共に眺める関係」です。また、一緒に絵を描いたり、おもちゃで遊んだりすることも、「共に眺める関係」です。また、おしゃべりをすることも、「共に眺める関係」です。頭の中に相手と同じ話題を保ち、それを一緒に眺めながら、おしゃべりが進んでいきます。具体的なものを一緒に眺めるよりも、遙かに高度になります。こういったごく当たり前の関わりの中で、子どもは、「共に眺める関係」という社会で他者と協力して活動する関係の基礎を発達させていくのです。
なお、カウンセリングも「共に眺める関係」です。図の中の「ある話題」という部分が、自分自身のことや自分自身の悩みになるわけです。自分以外のことについて語るよりも、難しい作業になります。また、授業も「共に眺める関係」です。1対多の関係なので、教師と生徒の関係性が1対1の時よりも弱くなります。つまり、教師と生徒が一緒に同じものを眺めている雰囲気が弱いのです。したがって、その分、高度な関係になると言えます。
話をカオナシに戻せば、カオナシは、「共に眺める関係」を充分に保つことができず、「見つめ合う関係」を激しく求めていると言えます。カオナシは、もう乳児ではありませんから、「ともに眺める関係」を持てないということから、カオナシは精神的には、かなり未成熟な状態であると考えられます。