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「カオナシ」について考える 1

カオナシ(千と千尋の神隠し)

「カオナシ」とアイデンティティ

 「千と千尋の神隠し」は、スタジオジブリ制作、宮崎駿監督の作品です。日本歴代興行収入第1位だそうです。2001年7月20日に公開。第52回ベルリン国際映画祭では金熊賞を受賞、第75回アカデミー賞ではアカデミー長編アニメ映画賞を受賞と素晴らしい評価を得ている作品です。しかしこの作品には色々な謎があります。その一つが、カオナシという存在です。カオナシについて、カウンセラーの立場から色々と考えて行きたいと思います。

 ところで、「千と千尋」では、「名」ということが、重要なテーマの一つになっています。名前を奪われる、そして、取り戻すということが、物語の展開の重要なポイントになっています。そして、名前というものは、心理学的には、”identity”(アイデンティティ)という概念につながっていきます。

 アイデンティティとは、“自我同一性”などと訳されることもありますが、最近では、カタカナでそのまま表記されることも多くなりました。アメリカの精神分析家、E.H.エリクソンによって提出された概念です。アイデンティティとは、「自分が自分である」という明確な意識を維持している状態をさしています。そして、2つの側面から定義されます。第一は、時間的な側面です。小さい頃からの自分というものの連続線上に今の自分、そして、将来の自分というものが位置づけらて捉えられているということです。第二は、社会的な側面です。自分の暮らしている社会の中で、他の人々との関係に基づいて、自分自身の独自性、そして、他者との共通性について明確に意識でき受け入れていることです。これらの2つの側面は、青年期を通じてに達成すべき発達課題であると考えられます。

 そして、アイデンティティの問題や障害は、「アイデンティティ・クライシス(アイデンティティの危機)」と呼ばれ、大きく2種類があげられます。第一は、「アイデンティティの拡散」と呼ばれる状態です。「自分」というものに対する意識が不確実で希薄で、「何が自分なのか全くよく分からない」といった状態です。第二は、「アイデンティティの混乱」と呼ばれる状態です。「自分」というもののあり方に葛藤が強く「どれが自分なのか」という混乱を抱いている状態です。

 

 

 「千と千尋」では、カオナシが、アイデンティティの拡散の状態にあたると思われます。自分自身の声も持たず、過去の歴史や周囲とのつながりは、物語の展開からはほとんどうかがい知ることができません。物語の中で表現されていないのではなく、カオナシが、そういったものを一切失ってしまっているように想像されます。自分が何者であるのかを全く失ってしまっている状態だと言えます。

 

 また、ハクは、アイデンティティの混乱の状態に当たると思われます。ハクはある程度、自分というものを保っています。しかし、過去の自分の在り方を失ってしまい、時間的な連続性を失っています。またリンや湯屋で働く他の人たちに対する態度と千尋に対する態度が全く違います。千尋は、「ここにハクっていう人二人いるの?」とリンに尋ねるほどです。アイデンティティの社会的な側面が混乱しているのです。以上のように、ハクは今の自分の在り方に、疑問を感じながらも、より良い自分の在り方を見いだせないでいます。

 

千尋(千と千尋の神隠し)

 

 主人公の千尋ですが、まだ10歳なので、アイデンティティはまだまだ形成の途上にあります。しかし、健全に成長していることを伺わせる様子が描かれています。それは、オープニングの引っ越してくる車内での様子です。千尋は、前の学校の友達からお別れにもらった花束を握りしめて車の中でふてくされています。千尋はさらに「初めてもらった花束がお別れの花束なんて悲しい。」と言うのです。その言葉に母親は、「アラッ。この前のお誕生日にバラの花をもらったじゃない。」と言います。千尋は「一本ね、一本じゃ花束って言えないわ。」と応えます。母親から見ると些細なことでも、千尋にとっては、重要な違いで、そこにこだわっている様子が伝わってきます。そこには、千尋が自分自身の過去の体験を非常に大切に感じている様子が表現されています。千尋は、自分自身の過去を文字通り握りしめて、物語に登場しました。アイデンティティの第一の側面は、時間的な側面ですが、千尋は自分自身の時間的な連続性をきちんと持っているのです。また、「お別れの花束」という逆説的なものですが、周囲とのつながりという、アイデンティティの第二の側面(社会的側面)をきちんと持ち続けていることが読み取れます。

 

千尋とカオナシ

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